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感じていること、考えていること、好きなこととか。

将来への不安が消えない理由

今あなたがが不安を抱えている限り、それがなくなることはないのだろう。

 

しかし過去に意味を与えるのは現在しかない。
現在の態度が変わらない限り、将来への不安は消えることはない。


私はわりと極端なたちなので、とても気分がいいときには世界の全てが綺麗に見えるのだけど、落ち込んだときには何もかもがどうでもよくなる。

 

(別にそこまでじゃなくても)過去の同じ出来事を回想したとき、そのときの気分や経験を通してまるで違うように感じることはよくあることだと思う。

 

例えば自分の身に何か悪いことが起きたとする。私は何も悪いことはしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。とまで思ってしまうような出来事が。その直後はとても落ち込んでしまうかもしれない。

けれどその後、以前と似たようなトラブルが起きたとき、そのときの出来事に遭ったがために、今度はもっと落ち着いて対処できるようになる。
そういうことが起きたとき、あのときの出来事はこの為にあったのかな、前とは異なる目線ついて解釈できるかもしれない。

 

ちなみに、わたしはこのプロセスをいわゆる学習能力のことだと思っている。すなわち学習能力が高いとは失敗から学ぶことでその後適切な応用ができるようになることでもある。

 


ちょっと唐突だけど、魔探偵ロキRAGNAROKという漫画のなかでウルドというキャラクターがこんな台詞を言っていた。

 

未来は過去の集積から成り立つのではなく 現在を観察する事により語る資格を持つのですすなわち……過去は未来に決定づけられるまで虚無なのですわ

 

この漫画は北欧神話がベースがなっていて、ウルドは運命を司るノルン三姉妹の長女で、未来を司る女神として登場する(実際の北欧神話とは異なる部分もけれど)。

 

過ぎ去った時間さえも、未来のとある瞬間により意味を持たされるまで何もなかったことになる。

 

 

先の見えない将来に対して不安に感じることは多い。

 

けれど自分の時間を不確定な未来への不安だけで満たすことのないように。

ネガティヴな感情で自分を縛らないように。

 

人生は後悔するには短すぎるのだから、意味をもたらせるようなものについてだけ向き合って生きていたい。 

 

けれどそれに気付くまでに必要な時間は、決して無駄にはならないのだろう。

 

 

自戒の意味も込めて書きたかったこと。

ライに行った日のこと。

イングランドで電車に乗っていると、車窓から長閑な田園風景を見ることができる。どこまでも続く小麦畑や、日差しが水面に反射してきらきらと映る小川や、羊や馬たちが草を食んでいる、といった具合に。そんな延々と続く平野をずっと走っていると、小高い丘の上にお屋敷が見えた。

その様子がちょっと日本の風景に似ている、と友人と話していると、電車はちょうどライに着いた。
 

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ライ(Rye)はイングランドの南東、海の近くにある街。事前に調べた情報によると三時間もあれば見回ることができるほど小さく、実際、街の端から端まで10分か15分かもあれば歩いていける距離だった。
 
ライに行きたかった理由について少し触れる。
時間もできたし旅行でも、と思ったものの、人が多いところにはあまり行きたくない。「何かがある」見どころを回ってたくさんの情報を受け取って疲弊する旅行をあまりしたくないなあと思った。
むしろ「何もない」ところに行って頭を空っぽにしたかった。
 
自分の住んでいる街からぎりぎり日帰りが可能だということや、日本の旅番組でも紹介され、かわいい街だと聞いていた、ということもあり、片道4時間、4回の乗り換えを経て、ライを訪れることになった。
 
 
朝早く家を出たけれど、駅に着いたのはもう13時近くだった。
まず駅からして完全な無人駅である。駅舎内には鍵がかけられていて、みんな駅舎の横の小さな隙間から出たり入ったりしている。
 
力尽きたのであとは写真たちの力を借りるという姑息な手を使って書き進めたいが、それは終わりの見えない書きかけの小説を無理やり終わらせようとするのによく似ている。
 
駅から北にある教会までは上り坂になっている。石畳の道も多く、広くはないが、歩き回る
のには少々骨が折れた。
 

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まずは作家ヘンリー・ジェイムスが住んでいたラムハウスを目指す。いつも思うけれど、誰かが過去に住んでいた、訪れた、と聞くと不思議な気分になる。どんな日々を過ごしたのか、どんな気持ちで作品を書いていたのか想像する。彼は庭仕事にも熱心だった模様。事実、私のカメラの画像フォルダには庭の写真ばかりが残っていた。

 

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 教会に向かう途中のお店でライのフリーマップをもらった。

 

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宝の地図みたいにかわいい。実際、わたしたちはライにいるあいだずっとかわいいという万能形容詞を何十回も呟くことになったのだけれど。

 
 
教会の塔は登れるようになっていて、体格のいい人は通れないであろう狭い通路を進み、急な階段を後ろ向きで登り、塔の一番高い部分にたどり着く。
 

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今回気付いたけど、わたしは高いところに登るのが好きみたいだった。
以前、旅行をすると必ず街の一番高いところに登ると言っていた友人がいた。そこから街全体を見渡すのが好きだと言っていたけれど、その気持ちが分かるような気がする。
 

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川の向こうに海が見える。
 

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ライは赤レンガの建物が特徴的な一方、 Mermaid Street はチューター式の建物が目立つ。
 
 
一通り街を巡り、時刻は3時過ぎ、何か食べようと思ってお店を探すがお客さんが少ないからかキッチンが既に閉まってごはんを出せるお店が皆無だった。
渡英して最初の頃に驚いたが、人の集まる観光地でもない限り日曜日は5時にもなれば、ほとんどのお店は閉まってしまう。
ライに行ったのは平日だったけれど、その、つまり、カフェのサービスは日曜日並みだった。
定休日のお店も多く、週の内3日間がお休みのお店もあった。
そのくらいの適当さがちょうどいいのかもしれない。
 
 
4時半を回ると学校を終えたティーンエイジャーたちがたむろして道を塞いでいる。
本物のヤンキーを見たことのないので、想像上で補完して、ヤンキーっぽく振舞ってみる人種はどこの田舎にもいるものだな、とイマジナリーフレンドならぬイマジナリーヤンキーたちの横を足早に通り過ぎる(決してoffensiveな意味で言っているわけではありません)。
 
 
通りがかりでAntique and High Class Junk という看板のお店が見えた。ハイクラスジャンクが気になって入ってみるが、その正体は状態がいいヴィンテージのことだった。
むしろガラスの方がメインのようで、ガラス細工の食器やシャンデリア、コンセプトがよくわからない置物がところせましと並べられている
そこで働いている人たちを見て、こういうところで働いているってどんな気分だろう、とふと思う。壊れものを扱うことで普段の生活で用心深くなったり神経質になることもあるのか、それとも逆に大胆になることもあるのかな、と頭を巡らせた。
 

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5時を過ぎても日差しがとても強い日だったので、冷たいビールが飲みたくなった。帰り際に立ち寄ったお店でローカルのものが売っていたら買おうと思ったが、生ぬるいエールしか売ってなかった。
しかたないので、たまたま目に付いたカプサイシン入りキューカンバーミントジュースなるものを買った。どうしてそんな地雷臭しかしないものを選んだのか自分でもわからない。一番面白そうですっきりした気分にになれそうだったからだと思う
 
また何もない無人駅に戻り、日本人の発想にはない不思議な味がするジュースを飲みながら、電車を待った。
ベンチに座ってぼーっとしいると赤レンガの中にさっき登った教会が見えた。
 
何もないなあ。
 
でもそれはつまり何かがあったということだと、そんな取り留めもないことを思った。

如何にしてわたしは他の人よりなにも優れてもいないしそれと同様になにも劣ってもいないのか

前置き

ブログというものを久しぶりに書く。思えばサイトをやっていたのは今から6、7年も前のことだから、最後にブログの記事を書いたのもその頃なのだと思う。今ではどのサーバーを使っていたのか、どんなことを書いていたのかさえ覚えていない。もっともサイトもブログも消した記憶はないから、今も誰の目にも触れることのないまま広いネットの海を文字通り漂流しているのだろう。

 

ブログを書くということ、それはつまり人に見られる文章を意識して書く作業を久しぶりにするということだ。その多くは放たれては同じく漂流する運命のあるような取り留めのないことでもある。

もう一つ、以前はハンドルネームというほぼ匿名に近い形でものを書いていたけれど、今回は半分実名くらいの状態で、ものを書くという違いがある。それがどう影響するかはこれからわかることだろうけれど。

 

きっかけ

前置きはこのくらいにして、そろそろ本題に入ろうとおもう。

(一回目の記事にしてもしなくても、)一見攻撃的にしか見えないタイトルにだけどやはりこれには訳がある。そして言い訳をしてもしなくても傲慢に聞こえるかもしれない。

 

 

きっかけは友達と話していたときに、話題に上ったことだった。

簡単に言うと私は英国に留学していて、哲学を大学で勉強している、事実なのだけど、日本に帰国した際に完全に自分が「イギリスから帰ってきた人」になっているという話をした。

 

例えば長期休暇などで日本に帰ったとき、おそらく物珍しさからその事実を知った人に何かを読み上げるかのような滑らかさで質問が飛んでくることがある。

 

4年住んでいれば英語ペラペラなんじゃない?授業全部英語なの?イギリスのごはんってやっぱり美味しくないの?イギリス人ってどんな感じ?等々。

 

その質問には無条件に「留学ってすごいね」という感じが付いて回る。

想像の範囲内だけどおそらく海外に留学した経験のある人や海外在住の人に共通する体験だと思う。

 

それに対して自分の口から語られた言葉がその人の中でのイギリスに対してのイメージのすべてになってしまうことを避けたいので、無難に答えることが多い。

私の言葉によってその人の世界を広げるのではなく、狭めることのないように。

 

最初は困惑していたのだけど、違う土地で珍しい機会をもらっているのだから、それに答えるのも義務のようなものなのかしら。とも思うようになってきた。

 

 

むしろ私は自分に質問をしてくれるあなたに興味があるのですよ。

 

ということに気づいてもらいたいし、あなたの話をもっと聞きたいと思っている。

 

 

そのような事情があり、一見わたしは完全に「イギリスから帰ってきた人」になっているけれど実は「イギリスから帰ってきた人ではない」、なぜなら別にすごくないし、「如何にしてわたしは他の人よりなにも優れてもいないしそれと同様になにも劣ってもいないのか」、というお題に関して自分が考えたことを書き起こしてみることになったのであった。*1

 

answer

タイトルに大まかな答えを言ってしまうと、自分に価値を与えられるのは自分だけだから、なのだと思う。

もしくはアイデンティを相対的価値と取り違えたことから起きたmistakeとも言える。

説明がないと突飛に見えるかもしれない。

 

identity and value

どの本かは忘れたけど池田晶子さんが「彼女はアイデンティティをあたえるのは他人だが、自分の価値は自分にしか与えられない」という言葉を言っていて、私は厳しくも自分を自由にさせるこの言葉をよく思い出す(もちろんtheory的な意味ではアイデンティティも自分で決めるものかも)。*2

 

たとえばここでは自分は他者から「イギリスから帰ってきた人」としてのアイデンティティを与えられる。そしてそこにはイギリスに留学することはすごい、という相対的価値が付随する。すなわち、自分と他者を比較して導き出される優劣のこと。

 

たまたま留学という1)物珍しく、目立つもので 2)そこに至るまでの過程が想像しづらいもの だったからそこに相対的な価値を見出されることが多かったのだろうと思う。

たしかに留学を通して本来の自分をだいぶ取り戻せたと思う。ただ、それは一つの手段であるに過ぎない。

 

attribution

いわゆる「イギリスから帰ってきた人」として見られるとき、しばしば気持ちの悪さといか(もやもや、違和感)を抱えることがある。

自分の本質ではなく自分に付随するなにかをみて判断されているむずがゆさのようなもの。

その違和感の正体は事実から一人歩きした属性に注目されることから来ていたのかもしれない。

 

value

でも自分で自分の価値を認められないと究極的には価値があるとは言えないのかもしれない。

少なくとも自分で自分の本質的な価値はそこにはないと思っている。

 

(控えめに言っても自信のある人間ではないので)私もそんなことを言っていてよく自分と他人を比較してますます自信をなくしてしまうということをやってしまうのでまだまだなのですが。

 

reflection

思えば自分も「イギリスから帰ってきた人」のアイデンティティにのっとってイギリスから帰ってきた人として振舞わなければならない」必要は全くないのだった。

たしかに私はイギリスから帰って来た人ではあるけれど、そこには事実だけが存在しそこには価値が付随することもない。

 

そういう意味ではアイデンティティはどこにも存在しないし、自分は何者ではない。

 

おわりに

むしろ人には世界があって、それまでの過程があって、人と話すことでその人の世界を覗けたような気になって楽しい。

さきほども書いた通り、私は質問をしてくれるあなたに興味があるし、あなたの話をもっと聞きたいと思っている。あなたが普段どんな世界を見ているのか、あなたがあなたになるまでにはどんな物語があったのか。

もっといろんな世界を見てみたいし、いろんな人と話してみたい、と思っている。だから、もっといろんな世界を教えて欲しい。

 

補足

考えていること寄りの文章になったのでもっと感じていることも書きたいものだな。

考えていることなら考えていることだけ、感じていることなら感じていることだけの記事にしたほうがいいのか、混ぜてみたほうがいいのか、続けている間にわかるのかもしれない。そのようにして今回はかなり実験的な文章になった。

*1:お題をくれた友達は提案するときにニーチェの「この人を見よ」がもしして頭にあったのかもしれない、と言っていた。 

*2:池田晶子 (1960-2007) 私が初めて読んだ哲学の本と言えます。